父ちゃん

 40年くらい前まではこう呼んでいたよ。

何時も見守っていてくれてありがとう!
おかげ様で父ちゃんの想いをつないで頑張っているよ。

最近今やっている仕事のお客様から「幸」の字を見て「この字、どう読むの」と聞かれ「みゆき、よ」と教えたら、その方から「昔はこの読み方は、珍しかったね」と言われて子供のころ、父ちゃんと母ちゃんから聞いたことを思い出したよ。 

「私は4人兄弟で、私の兄弟の名前は繋がっているのよ」と、説明をして 「幸のあとに 高次 と言う名前の弟がいて、法則の 則 と言う妹がいてその次に 加苗 という妹が生まれて、「幸の高次元の法則を叶える」と言う意味のあることを思い出し話したよ。

小学生の頃は名前だけ見ると男に間違えられることが多かったけど、今は一番気に入っているよ。

昔の女学校を出た母ちゃんと、(小学校の出席日数が足りなかったか? 何かで卒業できない様な時、カモ校長先生 という名前で、珍しいから覚えているけど「秋吉、学校のラジオの修理をしたら卒業をさせてやる」と言われ、学校のラジオの修理をして卒業出来たと言うような話を笑いながら話していたね。 

生きていれば103歳です。 家はお豆腐屋さんで毎日お豆腐を配ってお小遣いを貯めていたとか? 
独学で勉強をして、東京に行ったけど、カッケになって帰って来たなど、私に取ったら爺ちゃんになる父ちゃんの父ちゃんが、近所の元永さんと言うお友達に「あの子はどこか違う、もしなんかあったらたのむ」と言っていた、と言う事を若松のおばちゃんから聞いていたよ。

特許の書類を出す時いつも何日間も働く事が出来ず、母ちゃんと二人で書類を書いていたよ。

書類を送るのに、掛かる費用は元永のおじいさんが何も言わずに、何時もだしてくれていたね。 

今、少しずつあの頃のことを懐かしく思い出すよ。) 
お見合いで結婚したらしいけど、学歴の差のある母ちゃんと結婚出来た理由も分かるような気がするよ。   

その後の状況も、家はいつも貧乏だったよ。 でも母ちゃんは何時も「貧乏は恥ずかしくない、それを笑う人が恥ずかしい」と、言って聞かせてくれたよ。 
だけど、夫婦喧嘩はいつ始まるかと、気が気じゃなかったよ。 一番小さいときの記憶は、三つ位だったと思うよ。

何時もより激しくなり、つかみ合いになり、その内父ちゃんは何か小さなものを持って母ちゃんに投げつけようとしたよ。
その時、思わず母ちゃんのところに行ったよ。 あっちに行きなさいという母ちゃんの前で自分の指をいじりながら、「幸さんどけ」と言う父ちゃんの声を聴きながら、じっと座っていたよ。 

父ちゃんは、どこかに行ってしばらくして帰ってきたよ。 
でも、父ちゃんが居ない時、母ちゃんは 父ちゃんは立派な人だと、結婚後母ちゃんの実家が火事になった時のこと、その後の片付けのこと等、その他 色々話してくれていたよ。 だから私たち子供は周りが何を言っても父ちゃんの事を信じていたよ。
     
何時も夫婦喧嘩を見ていた私は、子供たちにそんな思いはさせたくないと思っていたんだけど、あんなに派手ではなかったけど、でも別れる事になってしまったよ。 

私は後になって気付いたよ。
何も遠慮せず、父ちゃんたちの様に本音でぶつかればよかったと。

そして3人を連れて帰った後の子育てと随分助けてもらってありが
とう。 おかげで無事に三人とも人並みの生活を出来ているよ。

長男が小学校4年生くらいの時「やさしいじいちゃん」と言う作文を書いていたよ。  

あの時の、私が見たあの壮絶なケンカの様子だったよ。
夜その作文をカバンの中から見つけて、一人で大笑いしたよ。 
今では何もかもが私に取って貴重な体験になっているよ。

何時も飾らず・格好をつけず・そのままの父ちゃんと母ちゃんの生き方に私も似てきたな?と思い、少し嬉しいような気分になるよ。
 
威厳があって! 信念があって! でも、どこか普通であの頃はそんな人が多かったね。

自分の子供だけではなく、よその子も・うちの子も同じと言う様な考えの人も多く、一緒に怒ってくれていたね。

何かあれば隣のおばちゃんが、見に来てくれたり、多くの人に助けられて今があるよ。

行政や福祉とは違い、お互いに思いあって自分の出来ることをして、地域には思いやりや温かさがあふれていたよ。

私が小学校の時、働きだしたからと言って誰かが毎月500円送って来てくれるように成って、かわいい便箋のお手紙が入っていてあしながおじさんの様な方がいたね。 
                        2020年2月途中



この文章は、コロナウイルスのニュースの出はじめのころに書いていた物です。
体調に異変が起こる中どうしても書き残したくメモッた物です。 

(4月22日)の日記にあります、体内の粘膜が溶けている様な状況の時がありました。 その頃書いた文章です。

続けてすぐ書くつもりでしたが、そのままになってしまいました。

その時は、あの頃の様子や状況がはっきりと思い浮かぶような気がしました。

貴重な体験を思い出させて頂きました。
今、思います。 私に使った物は何だったのでしょうか?

もし、年を取るうちに色々と積み重なった物質が粘液と共に剥がれ落ち、急に昔の事を思い出す様な事があれば、若返ることも、認知症などの治療にも大変役立つように思います。

それは脳だけではなく、他の細胞の再生にも大きく貢献できるように感じています。
けがの功名の様な大きな発見の様な気もします。

数年前、小保方 様 の発見されていたSTAP細胞の様なものではないでしょうか?  

体中の粘液を溶かし、再び再生出来るその条件を必要な部所に使える様に開発できるとすれば、無駄な薬品も作り出す事なく、大きな手術も必要なくなるか減少するのではと思われます。

発見された方は、是非 良い方向に進んで頂きたいと願っています。

                        2020年5月5日
















                

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