1950年4月19日 に私は生まれています。
第二次世界大戦 終戦の5年後です。
戦後の日本の状況をずっと見てきました。
ほんの十年くらい前までは、日本人で有ることに誇りをもっていました。

日本は変わってしまいました。
家庭のヤリクリも責任もって遣った事のない、おぼっちゃまの政治家にお任せすること自体おかしいと思います。  まるで政治家ごっこです。
おまけに洗脳状態と思った方がいいと思います。

日本は異常です。
オリンピックも最初から本気なのかと思っていました。

日本らしさも何もなく行き当たりばったりで、エンディングに当時の安倍総理がマリオの格好で下から湧いて出てくるなど、本当の目的は何なのかを、国民みんなでしっかり考え、行動を起こさなければ日本はつぶれます。

日本は自分たちで仕掛けた事で、ボロボロになるような気がします。
第二次世界大戦の様な事が起こって居ます。

その時父は車の変速機の特許を出願していました。
この事は「父の戦争」を引用します。
 
 2018年6月1日
  父の戦争
 父は、今私の取得している垂直に設置できる太陽光発電の基となる、ガラスの特許を 40年程前に取得し、その直後一枚の波板として出来ることに気付き、直ぐ出願をしました。 
でも、資金不足の為そのままの状態になっていました。

提出していた書類は特許庁に残っていましたので、それを利用し垂直に設置出来る太陽光発電を考案しています。

若い頃より特許を手がけていた父は、私の物心つく頃より良く色々のことを話してくれました。
未だ車の余り無い頃、70年以上前のことだと思います。
良く話していた事は車の変速機の事です。 
今で言うクラッチの事だと思います。

その特許を提出した後、戦争が始まり父も招集され戦地では、危険が迫ると
上官の方が父を探し回り、「お前はこの中に入っておけ、お前に何かあったら
俺が困る」と言う様な事を言って、いつも戦車のなかに押し込まれていたそうです。
そのうち戦争が終わり、上官との別れの時その方が自分の持っていたタバコを出して、「好きなだけ取れ」と言って箱を渡されたそうです。 
父はその中に2・3本ほど残して後を貰ったと面白く話していました。 

戦地より帰った時には、その特許はアメリカの方の権利に成っていて「日本は何時までも許可を出さんき、アメリカに特許料を払わんならん」と何度も悔しそうに話していました。 

現代94歳になった父の妹の叔母が、戦争から帰ってきた父は、人が変わった様に厳しく成っていたと、父の話になると必ずその時の苦労話に変わっていました。  戦争は、あらゆる人の人生を狂わせてしまいました。

その後、だんだんと世の中は車社会になって行き、それと同時に車のライトに目を奪われ、事故になったニュースを良く聞くようになり、今度はライトの研究を始めました。

私は未だ小学校前だった様に記憶しています。
光りに目がくらむことの無い様なガラスの試作品を、玩具の車に取り付け、特許庁へ送った事が在ります。
そのガラスは、すでに何処かに有ると言う返事でした。

その後は、時間があればプリズムを持っていて研究を重ねていました。
出来たのが、垂直に設置できる太陽光発電の基となる、プリズムを利用した父の特許です。













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